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東京高等裁判所 平成6年(う)33号 判決

主文

原判決を破棄する。

被告人を罰金二五万円に処する。

右罰金を完納することができないときは、金五〇〇〇円を一日に換算した期間被告人を労役場に留置する。

理由

一  本件控訴の趣意は、弁護人若井広光作成名義の控訴趣意書に記載されたとおりであるから、これを引用する。

二  控訴趣意第一(被告人の過失を認定したことに係る事実誤認ないし法令適用の誤りの主張)について

1  所論は、要するに、次のようなものである。すなわち、原判決は、被告人が、本件交差点の信号機の表示に注意するはもとより、交差道路の左方から直進進行して来る車両の進路を妨げないようその安全を十分確認した上右折発進すべき業務上の注意義務があるのに、これを怠り、信号機の表示に注意せず、漫然右折進行した過失により、本件事故を発生させたとしている。しかしながら、本件のように、被告人が、普通乗用自動車を運転して、交通整理の行われている交差点を右折しようとして、青色信号に従い同交差点に進入したところ、先行する右折車両が対向車両の通過を待つて一時停止したためこれに続いて同交差点内で一時停止し、先行車が右折発進したのに続いて発進しようとしていた場合において、本件当時における本件交差点の交通状況からすれば、交差道路の左方から直進進行して来る車両としては、たとえその車の前方の信号が青色を表示していたとしても、交差点内にいる被告人運転車両の右折の完了を待つて当該車両を進行させるのが確立された交通道徳であるというべきである。すなわち、被告人としては、交差道路の左方から直進進行して来る車両が、交通法規を守りあるいは交通上不適切な運転をすることなく、自車との衝突を回避するため適切な行動に出ることを信頼して右折進行すれば足り、本件におけるA運転の自動車のように、あえて交差点内の安全確認を怠り、時速四〇キロメートルもの速度で交差点内に突入して来る車両のあり得ることまでも予想して、信号機の表示に注意し、交差道路の左方から直進進行して来る車両の進路を妨げないようその安全を十分確認した上右折発進すべき業務上の注意義務はないものと解するのが相当である。したがつて、本件事故につき被告人に過失はなく、これを認めた原判決には、判決に影響を及ぼすことが明らかな事実誤認ないし法令適用の誤りがあるというのである。

2  そこで、原審記録を調査して検討すると、原判決挙示の関係各証拠を総合すれば、本件事故につき、被告人の負うべき注意義務及び過失として、原判決が罪となるべき事実において認定判示するところは、正当として是認することができ、また、原判決が「補足説明」の項中二の(1)において説示するところも結論的にこれを維持することができ、原審におけるその余の証拠及び当審における事実取調べの結果を合わせて検討してみても、被告人の過失に係る原判決の認定に誤りがあるとはいえない。以下に若干補足して説明する。

3  関係各証拠によれば、本件事故の状況等として、次のような事実が認められる。

(1) 本件事故現場は、東西に通じる道路(国道一号)と南北に通じる道路(通称内堀通り)とが交差する、信号機により交通整理の行われている東京都千代田区皇居外苑一番一号先の十字路交差点(通称祝田橋交差点、以下「本件交差点」という。)内である。同交差点東方の銀座方面に至る道路(以下「東方道路」という。)の幅員は、約三二メートルで、中央に幅約二メートルの分離帯があり、後記(3)のとおり被告人運転の自動車の進行してきた南側西進車線(有効幅員が約一五・五メートル)には、五車線が設けられている。同交差点南方の新橋方面に至る道路(以下「南方道路」という。)は、その幅員が約二〇・六メートルで、本件交差点南側入口に設けられた横断歩道の南端まで、植栽がなされている幅約三メートルの中央分離帯があり、後記(4)のとおりA運転の自動車の進行して来た西側北進車線(有効幅員が約八・二メートル)には、二車線が設けられている。本件交差点北方の神田方面に至る道路(以下「北方道路」という。)は、西側の北進車線が四車線(うち、西側の二車線は、西方道路からの左折車両用車線)、東側の南進車線が五車線である。本件交差点西方の桜田門方面に至る道路(以下「西方道路」という。)には、中央分離帯があり、北側の東進車線、南側の西進車線とも各五車線(ただし、東進車線の北側二車線は左折車線)となつている。なお、本件交差点は、街灯が多く設置されていて夜間でも明るく、交差点内の見通しはいずれの方向も良好であつた。

(2) 本件当時における、本件交差点に設置された信号機の作動状況は、一サイクル約一〇八秒間に、東方道路から西進車の信号は、青色約五〇秒、黄色約三秒、全赤色約二秒、赤色約五三秒の順序で表示し、この間に、南方道路からの北進車の信号は、赤色約五三秒、全赤色約二秒、青色約一二秒、黄色約三秒、赤色約三八秒の順序で表示していた。

(3) 被告人は、平成四年一一月二七日午後八時過ぎころ、普通乗用自動車(タクシー、以下「被告人車」という。)を運転して勤務中、千代田区有楽町付近で、B子ほか一名の客を乗車させ、東方道路を東から西に進行して来て、午後八時二〇分ころ本件交差点に差し掛かつた。そして、被告人は、被告人車を運転し、本件交差点を右折して北方道路に入り神田方面に向かうべく(午後八時以降は東方道路から北方道路への右折進行が可能であつた。)、東方道路の最も中央分離帯寄りの車線を進行し、交差点手前でトラックに続いてその後方にいつたん停止し、その後青色信号の表示に従つて、右トラックに続いて本件交差点内に進入したが、西方道路から本件交差点を東進する車両の通過待ちのため、右トラックが本件交差点内で一時停止したことから、被告人車も右トラックの後方に停止した。しばらくして、対面信号が赤色表示に変わり、西方道路から東進する車両の流れが途切れた後、右トラックは速度を上げて右折進行して行つたが、被告人は、右トラックが発進してから若干の時間的間隔を置き、被告人車を右停止地点からゆつくりとした速度で発進させ、時速約一〇ないし一五キロメートルの速度で本件交差点内での右折進行を開始した。

(4) 他方、Aは、本件当時、普通乗用自動車(以下「A車」という。)を運転し、南方道路西側の北進車線のうち中央分離帯寄りの車線を新橋方面から進行して来て、本件交差点に差し掛かり、同交差点の手前に設けられた停止線付近で、停止車両の先頭に位置し、対面信号の赤色表示に従つていつたん停止した。そして、Aは、対面信号機の表示が青色に変わるのを見て、A車を発進させて本件交差点内に入り、徐々に加速して、神田方面に至る北方道路に向かつて時速約三〇ないし四〇キロメートルの速度で直進進行した。

以上の事実が認められる。

4  次に、被告人車が、本件交差点内で先行するトラックに続いて一時停止した地点及び本件事故の衝突状況について検討する。

まず、右一時停止した地点についてみるに、本件当時、客として被告人車(タクシー)の後部座席に乗車していたB子は、原審公判廷における証言中で、被告人車が本件交差点内でトラックに続いて一時停止した地点は、被告人車の後部が、東方道路入口に設置された横断歩道内側の線から二メートル位西に位置する点である旨供述している。そして、B子の右供述は、内容的に不自然さがなく、同女の右証言中その余の部分、とりわけ、同女が本件事故直前に左方から進行して来るA車を現認している旨述べている部分などとも符合し、右3認定の本件交差点内の客観的状況等と矛盾がなく、したがつて、その信用性に疑いを抱く余地はないというべきである。これに対し、被告人は、捜査段階及び原審公判廷において、一時停止した地点は、東方道路入口に設置された横断歩道内側の線から一〇メートル位西方やや斜め北に進行した地点(捜査段階における供述)あるいはその地点から更に西に進んだ地点(原審公判廷における供述)であるなどと供述している。しかしながら、関係各証拠によれば、本件当時、西方道路から東方道路への直進車両はかなり多かつたと認められるところ、被告人の捜査段階における供述においては、被告人車の停止地点に関連して、その前方にいたトラックが、被告人車のさらに右斜め前方に、前部を北西方向に向けて東進車線の一部を塞ぐようなかたちで停止していたというのであるが、右のような交通状況に照らし、夜間とはいえ、本件交差点内で東進する直進車両の流れを阻害するような形で右折車が一時停止することは通常考えられず、したがつて、被告人の右供述は、内容的に不自然である。また、被告人の原審公判廷における供述をみても、前記3(1)で認定した本件交差点の道路状況からすれば、被告人車の前方にいたトラックの一時停止の地点が、交差点の中央より西に進み過ぎた地点にならざるを得ず、その意味で、被告人の右供述には内容的に疑問が残る。したがつて、結局、B子の右証言をはじめ関係各証拠を総合すれば、被告人車が、本件交差点内でトラックに続いて一時停止した地点は、東方道路の最も中央分離帯寄りの車線から直進し、被告人車の前部が交差点東側に設けられた横断歩道内側の線から七メートル前後進んだ付近であつたものと認められるのである。

また、本件事故の衝突状況についてみるに、関係各証拠によれば、前記3(3)認定のように進行した被告人車と、同(4)認定のように進行したA車とは、本件交差点内において、被告人車の前部バンパーの左角付近がA車の右側後部ドア付近に衝突するという事故を起こしたことが客観的に明らかである。そこで、右衝突地点について検討するに、Aは、原審公判廷における証言中で、自分の車を発進させ、北方道路の西側車線に向かつて直進したところ、右側にタクシーが見えたので、ハンドルを少し左に切りながらブレーキをかけたが、本件交差点のほぼ中央付近(本件交差点北側に設けられた横断歩道から約二〇・三メートル南方、本件交差点西側に設けられた横断歩道から約二五・四メートル東方)で、自分の車の後部ドア付近にタクシーが衝突したという趣旨の供述をしている。Aの右証言は、衝突地点に係る部分も、前記3で認定した各事実と何ら矛盾するところはなく、B子が、原審公判廷において、衝突地点に関してAの右供述とほぼ同様の証言をしていることに照らしても、十分信用することができる。これに対し、被告人は、捜査段階において、衝突地点は、交差点の中央より西に寄り、かつ、中央から五ないし六メートル北方(本件交差点北側に設けられた横断歩道から約一四・八メートル南方)の地点である旨供述し、また、原審公判廷においては、衝突地点はそれよりさらに北であるかの供述をしている。しかしながら、被告人の右各供述は、前記3で認定した諸事実に照らして不自然であり、信用することができない。すなわち、A及びB子の原審公判廷における右各証言、司法警察員作成の各実況見分調書その他関係各証拠によれば、本件事故の衝突地点は、前記Aの供述する地点付近の本件交差点のほぼ中央付近であつたものと認められるのである。

5  以上認定した各事実を総合すれば、本件事故の態様は次のようなものであつたことが認められる。すなわち、被告人車は、東方道路を西に進行して来て、本件交差点を右折すべく、先行するトラックに続いて本件交差点内に進入し、本件交差点東側に設けられた横断歩道に接近した地点でトラックに続いて一時停止した後、右トラックが発進してから若干の時間的間隔を置き、対面信号が赤色表示になつた後にゆつくりとした速度で発進し、時速約一〇ないし一五キロメートルで本件交差点内を右折進行したところ、本件交差点内のほぼ中央付近において、被告人車の前部バンパーの左角付近が、南方道路から北方道路に向け直進進行して来たA車の右側後部ドア付近に衝突したものであることが認められる。

6  そこで、以上の各事実を前提にして、被告人の過失の有無について検討するに、前記認定のとおり、被告人車は、本件交差点内の、交差点東側に設けられた横断歩道に接近した地点でトラックに続いてその後方に一時停止し、対面信号が赤色に変わり、右トラックが速い速度で右折進行して行つた後、若干の時間的間隔を置いて発進し、ゆつくりとした速度で右折進行したものであるが、その際、被告人としては、すでに全赤信号の状態を経過して、交差道路を進行する車両に対する信号が青色信号となり、そのため北行及び南行の車両の流れが生じる状態となつていたのであるから、こうした流れを妨げることのないよう適切な措置を講ずる必要があつたものと考えられる。すなわち、A車との関係に即していえば、A車は、その対面信号が青色に変わつたのに従つて、被告人車の左方から、被告人車が右折して進行しようとする方向と同じ方向に向かつて、接近進行しようとして来た状況にあつたのであるから、被告人としては、右車両の進路を妨げないよう、進路左方の安全を十分確認した上で右折進行すべき業務上の注意義務があつたものというべきである。しかるに、関係各証拠によれば、被告人は、本件交差点の信号機の表示が全体的にどのようなものになつているか十分に注意を払うことなく、南方道路から進行して来る車両の有無、接近状況等に注意せず、すなわち、進路左方の安全を確認しないまま漫然右折進行し、そのため本件交差点の中央付近でA車と衝突したことが明らかであるから、この点において、被告人には本件事故の発生につき過失があるというべきである。被告人は、原審公判廷において、自分は、北方道路の神田方面に向かう信号機が青になつたのを見て、トラックに続いて右折進行した、右折進行するとき左方を注意していたがA車は見えなかつたなどと供述しているが、これらの供述は、B子及びAの原審公判廷における各証言その他関係各証拠に照らして信用することができない。

なお、所論は、本件においては、専らAにおいて、被告人車の進路を妨害しないように進行すべき業務上の注意義務があつたのであり、被告人としては、Aが被告人車との衝突を回避するため適切な行動に出ることを信頼して運転すれば足り、被告人に、本件交差点の信号機の表示に注意し、南方道路から直進進行して来る車両の進行を妨げないようその安全を確認して進行すべき業務上の注意義務はないなどと主張する。

たしかにこの点、前記3及び4で認定した本件当時における本件交差点の状況からすれば、Aとしても、道路交通法七〇条の規定に照らし、被告人車との衝突を回避するようその安全を確認して進行すべき注意義務を負つているということはできる。とりわけ、前記3及び4で認定した各事実に関係各証拠を合わせ考慮すれば、Aは、本件交差点に進入して間もなく、進路右斜め前方に右折進行しようとしている被告人車を容易に発見することができたのに、進路右斜め前方の安全を十分確認しないで直進進行したため、被告人車の発見が遅れたものと認められる。そしてこの点、Aがもう少し早く被告人車を発見し、これに対応して適切な措置を取つていれば、被告人車との衝突を避けることができたものと考えられるので、その意味で、本件事故の発生につきAにも一端の過失のあることは認められる。

しかしながら、Aにおいて、直進進行するにあたり右のような注意義務が認められ、同人にこれを怠つた過失があるからといつて、所論のいうように、A車に対し被告人車にいわゆる優先通行権があり、被告人には、進路左方の安全確認などの注意義務はなかつたなどということは到底できない。所論は、被告人が、交差道路の左方から進行して来る車両に進路を譲ることになれば、被告人車は右折の機会を失い、対面信号機の表示が青に変わり、かつ対向車両が途切れるまで、長時間交差点内で立ち往生しなければならなくなり、かえつて、他の車両の通行を妨害し道路交通の安全と円滑を阻害することになりかねないなどという。たしかに、被告人車が、南方道路から北進して来る車両に進路を譲ると、右折の機会を失うおそれがあり、北方道路からの、南進車両や西方道路への右折車両等の通行の障害にもなりかねないが、本件において、被告人車が一時停止地点から進行を開始したころには、前記認定したとおり、すでに、全赤信号の状態を経過して、交差道路を進行する車両に対する信号が青色表示に変わり、そのため北行及び南行の車の流れが生じる状態に至つていたのであるから、交差点内であつたとはいえ、交差点東側に設けられた横断歩道に極めて近い地点で右折待ちの一時停止にしていた被告人車としては、このような場合、いつたん後退して次に対面信号が青色表示になつて右折可能になるまで待つか、そうでないとしても、本件交差点の信号機の表示に留意しつつ、他の車両との衝突を回避しながら、通行車両の合間を縫つて右折進行すべきものであつて、南方道路からの北進車両の進路を塞いで進行してもよいなどとは到底認められない。したがつて、所論は、採用することができない。

7  以上の次第であるから、原判決挙示の関係各証拠によれば、本件事故につき、被告人の負うべき注意義務及び過失として、原判決が罪となるべき事実において認定判示するところは、正当として是認することができ、この点につき原判決に事実誤認ないし法令適用の誤りは認められない。

論旨は、理由がない。

三  控訴趣意第二(Aの受傷の点に関する事実誤認の主張)について

所論は、要するに、本件事故により、Aが受傷したことについては重大な疑問があり、仮にそうでないとしても、原判決が認定したように、Aが、本件事故により約九か月間もの加療を要する傷害を負つたことはないから、この点原判決には、判決に影響を及ぼすことが明らかな事実の誤認があるというのである。

そこで、原審記録を調査して検討すると、関係各証拠によれば、Aは、本件事故翌日の平成四年一一月二八日に医療法人社団奥山会駒込診療所で医師の診察を受け、頚椎捻挫及び腰椎捻挫により、当分の間通院加療を要するとの診断を受けたこと、Aは、その後平成五年五月一三日までの間に右診療所に合計三三日にわたり通院し、この間頚部痛、肩凝り、腰痛を訴えて理学療法中心の治療を続けたこと、そして、同月一四日の時点で、右診療所医師が、Aについて、なお治療継続中であり、治療見込みは同年八月末日ころである旨診断していることが認められる。

ただ、この点、原審で取り調べた関係各証拠に、当審において取り調べた関係各証拠を合わせて検討すると、本件事故において、被告人車に乗つていた被告人や乗客らに傷害を負つた者はいないこと、Aの右症状は自覚所見のみで他覚所見は認められないこと、Aは、本件事故後勤務先の会社を欠勤したりしたことはなく、平成五年一月二八日から同年二月四日までの間、会社の社員旅行でハワイに旅行していること、同年五月一三日以降は六月に七日と一〇日の二回通院しただけで、その後は通院していないなどの状況が認められる。しかしながら、関係各証拠によれば、A車は、後部左側ドア付近がかなり凹損していることが認められ、こうした衝突状況に照らし、本件事故の際、Aに前記医師の診断したような傷害が発生した可能性が十分考えられる。また、Aは、原審公判廷において証人として尋問を受けた際、次のように供述している。すなわち、本件事故で被告人車と衝突した瞬間斜め後ろからの衝撃を感じ、体を右に捻つた体勢になつた、事故発生直後は、どこも痛みを感じなかつたが、夜中の午前二時か三時ころになつて首の後ろの部分が痛み出したので、その日に駒込診療所に行つて医師の診察を受け首の牽引等の治療を受けた、腰の方は一、二週間で痛みがなくなつたが、首の方は平成五年の六月一〇日まで治療を受けていた、しかし、仕事などもあるし、自分でいいと思つたので通院するのをやめた、同年九月三〇日の時点ではもう痛みはほとんどない、同年一月下旬に社員旅行でハワイに行つたことがあるが、旅行中水泳など運動はしなかつたなどと供述している。Aの右供述は、前記認定した事実に照らしても自然であり、病状等を殊更誇張して供述しているとは認められず、これを信用することができる。

そこで、以上検討したところに加え、Aの受けたいわゆるむちうち症的な症状については、一般に、他覚的な所見を示さないものが多く、また、個人によつて症状の差がみられ、その程度が重篤なものでなくても相当長期間の加療を要する場合もあることなどをも考慮すれば、前記医師の診断結果がことさらな誤診であるということはできず、右の診断結果等に照らし、Aが、本件事故により、加療約九か月間を要する頚椎捻挫及び腰椎捻挫の傷害を負つたものと認定することができる。したがつて、この点につき、原判決の事実認定に誤りはなく、論旨は、理由がない。

四  控訴趣意第三(量刑不当の主張)について

所論は、要するに、被告人を罰金四〇万円に処した原判決の量刑は重過ぎて不当であるというのである。

そこで、原審記録を調査して検討すると、本件は、先にみたとおり、被告人が、普通乗用自動車(タクシー)を運転して、千代田区内の通称祝田橋交差点を、銀座方面から神田方面に右折進行するにあたり、右折途中で対面信号が赤色に変わつたのに、信号機の表示に注意せず、交差道路左方の安全を確認しないまま、時速約一〇ないし一五キロメートルで漫然右折進行した過失により、折から、新橋方面から青色信号に従い直進進行して来たA運転の普通乗用自動車に自車を衝突させ、同人に加療約九か月間を要する頚椎捻挫及び腰椎捻挫の傷害を負わせたという事案である。被告人の本件過失は、右のとおり、信号機の表示に対する注意や、交差点内を右折進行する際の周囲に対する安全確認という、自動車運転手としての基本的な注意義務を怠つたというもので、被告人が右の注意義務を尽くしていれば、本件事故は容易に回避することができたのであつて、Aの加療期間が長期間に及んでいることに照らしても、被告人の刑事責任が軽いものということはできない。

しかしながら、前記二で検討したとおり、本件事故の発生については、Aの側にも一端の過失があると認められること、Aの本件事故による傷害は、治療期間としては約九か月間を要するというものではあるが、重い外傷を負つたものではなく、いわゆるむちうち症であつて、前記三でみたとおり、Aが、受傷後約二か月後には海外旅行に出掛けたり、また、自ら途中で治療を受けるのを止めていることなどからすれば、そのむちうち症の程度もさほど重篤なものではなかつたと認められること、被告人は、本件事故について一応反省の態度を示していること、タクシー運転手として真面目に働いていたこと、被告人には、これまで交通違反を含めて全く前科前歴がないこと、被告人の年齢など、被告人のために有利にしん酌すべき事情が認められ、前記諸事情にこれら被告人に有利な事情を合わせて量刑を考えてみると、被告人を罰金四〇万円に処した原判決の量刑は、金額においていささか重きに過ぎ、原判決の量刑をそのまま維持するのは正義に反すると認められる。

よつて、刑訴法三九七条一項、三八一条を適用して原判決を破棄し、同法四〇〇条ただし書により更に被告事件について次のとおり判決する。

原判決が認定した罪となるべき事実に、原判決と同様の法令を適用し、同様の刑種の選択を行い、その所定金額の範囲内で前記の情状を考慮して被告人を罰金二五万円に処し、右の罰金を完納することができないときは、刑法一八条により金五〇〇〇円を一日に換算した期間被告人を労役場に留置し、原審及び当審における訴訟費用は、刑訴法一八一条一項ただし書を適用して全部被告人に負担させないこととし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 松本時夫 裁判官 円井義弘 裁判官 河合健司)

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